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創作小説 「空腹感」

 都心にそびえる高層マンション。そのうちの一室で、今日も少年は腹を空かせていた。
 何か食べ物はないだろうか。ソファに寝転がったままポケットを漁ってみると、チョコレートが一つ出てきた。
 小さな包み紙を広げ、粒を口に放り込む。舌の上でとろける甘い味。しかし、少年は呟いた。
「これじゃあまだ足りないな」

 次の日も、少年は腹を空かせていた。
 何か食べ物はないだろうか。整理整頓された冷蔵庫を漁ってみると、真っ赤な苺が一箱出てきた。
 適当に洗い、大きく開けた口に詰め入れる。みずみずしい果実の味。しかし、少年は呟いた。
「これでもまだ足りないな」

 その次の日も、そのまた次の日も次の日も、少年は腹を空かせていた。
 汚れ一つないキッチンに立って、少年は調理するようになった。初めこそ大層なものを作ることはできなかったが、料理の腕はすぐに上達した。こふきいもから、野菜炒め、ハンバーグ……。
 ご飯とスープとおかずを添えて、上等な牛肉のステーキを食べる。かすかに残っている血の味。それを静かにたいらげて、少年は呟いた。
「やっぱりまだ足りないな」

 その日、少年の家には来客があった。
 同じクラスの可憐な少女。机の上に忘れていた宿題を、帰り道に通るからとわざわざ持ってきてくれたらしい。
 中へ招いて、チョコレートとジュースを出してみる。少女は嬉しそうにそれらを口にし、柔らかそうな頬を膨らませる。
 なんだか腹が空いてきたな。そんなことを考えていると、少年の腹の虫が鳴いた。慌てて腹を押さえる少年を見て、少女はくすっと笑った。
「さっきから私ばっかりつまんでるじゃない。一緒に食べようよ」

 チョコレートを口の端で溶かしながら、二人は他愛もない話をした。学校の先生や友達のこと、どのテレビ番組が面白いか、何をするのが好きか。少女はくるくると表情を変えて喋り、少年の話にも笑ったり真剣に頷いたりした。
 穏やかな午後の日差しが、レースのカーテン越しに部屋を暖めていく。二人の会話の後ろで、分針はそっと時を刻んだ。

「あ」
 ふいに、菓子皿へ伸ばした少年の指が止まる。いつの間にかチョコレートは全部食べてしまっていた。他のお菓子開けようか、と少年が尋ねれば、少女は横に首を振る。
「いいよいいよ、私はお腹いっぱいだから。まだお腹空いてる?」
 何気なく投げかけられた言葉への答えを、少年は自問してみた。不思議なことに、いつものような空腹感はかけらもない。
「ううん、僕もお腹いっぱいだ」
 その時無意識に動いた少年の手は、腹ではなく胸に当てられていた。
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テーマ : ショート・ストーリー
ジャンル : 小説・文学

創作小説 「プログラム」

 来場者には笑顔で手を振る。
 このプログラムが組み込まれたアンドロイド型ロボットの登場は、人気テーマパークによって広く知れ渡ることとなり、世間で話題を呼んだ。開発に携わったのは、とある機械工学博士。彼のロボット好きは以前から学界で有名だったが、今回の功績で企業や官公庁にまで名前を覚えられてしまったのである。
 まもなく当然の流れとして、その博士には依頼が殺到した。
「あのロボットは素晴らしいですね。我が社の受付にも置かせて頂きたいのですが、もう少しサイズを小さくできないでしょうか」
「ただの物と客をきちんと識別しているシステムには脱帽でした。あれを発展させて、指名手配犯を認識すると音を鳴らす監視カメラなんて物は作れませんでしょうかね」
 このような元のロボットに関連した依頼はまだいい。しかし、博士の博識さと人の良さが噂になるにつれて、全く異なるプログラムのロボットが求められるようになった。
「要するに、何らかの刺激にこう反応せよ、ということは可能な訳ですよね。では盲導犬の代わりに、赤信号では止まり青信号では進む先導ロボット、というのも開発できますか」
「バーコードを読み取り合計金額を計算してくれる、そんな機械を一緒に作って頂けませんか」
「現場の先生方にとって、テストの丸付け作業は大変なんです。解答が合っていれば丸を書くようなロボットはできませんか」
 中にはただの怠けではと感じる依頼もあったが、博士は二つ返事で引き受けた。というのも、彼自身どこまで実現可能なのか知りたかったからである。

 幸か不幸か、博士は粘り強く挑み続ける性格であったので、ロボットは次々と作り出されていった。こうなると更に上を求めるのが依頼側である。
 初めは一つの刺激に対し一つの反応、そのプログラムを一組持つロボットであったのに、依頼は次第に二組、三組……と複雑になっていった。例えば盲導犬代理の先導ロボットは、段差があると利用者に知らせる機能や、物の名前を聞き取り持ってくる機能などが追加されていった結果、一人前に近いサポートができるまでに進化したのである。
 このロボットの成果を見て、依頼人は冗談交じりにこう言った。
「もはやヘルパーと大差ありませんね。できないことといえば、会話ぐらいではありませんか」
 依頼人にとっては軽い気持ちの発言だったのだろう。しかし、開発に尽力した博士からしてみれば、まだできないことがある、と指摘されるのは悔しい限りだった。
「いや、会話だってできるようにしてみせますよ」
 彼はその場で宣言し、長い時間をかけて本当に会話ができるロボットを作った。世間はまたも騒ぎ立てたが、博士はさらりと種を言ってのけた。
「何ということはありません。会話だって仕組みはプログラムと同じ。名前を呼ばれたら返事をし、相手が話せば相槌を打ち、内容に不明点があれば問いかけ、あとはこちらも話題のカテゴリーに合った知識情報や経験情報を言語化すれば良いだけです」
 さらに実物に近づけるため、博士はボディにもこだわり始めた。見た目が本物そっくりなのは最低条件、しかしもし解剖された時に電線がいくつも現れるようでは駄目だ。臓器も骨も筋肉も生殖器官も、果ては細胞、遺伝子に至るまで博士は追求した。
 同時に、会話以外のプログラムも組み込んでいく。例えば、好き嫌いといった感情の部分。これも所詮は知識情報や経験情報をもとに判断しているのだから、人工的に作り出せるはずである。あるいは、性格や信念もそうだ。実行してみて褒められる等の刺激が返ってくれば継続されるし、逆に叱られる等の刺激ならば同じ行動はしない。もちろん実際はそれほど単純な判断ではないから、博士は気が滅入るほど細かくプログラムを作っていった。
 そして、会話ロボットの完成から数十年後。世界中の研究員の手も借りて、ようやく博士は完璧なアンドロイドを開発したのである。

 さて、このアンドロイドはあらゆる賞を総なめにしたが、世間では意外にも評判が悪かった。
 心を持たない人工物であるはずのものが、まるで自分たちそっくりに動き、話し、生活するというのは気味が悪かったのだ。また、法律が適用されるのかという問題や、人権は付与されるのかという問題も持ち上がってきた。
 そして、開発主である博士はアンドロイドを快く思わない団体から四六時中嫌がらせを受けるようになったのである。どこへ逃げても、もはや有名になり過ぎた博士とアンドロイドはすぐに見つけられた。
「仕方あるまい」
 博士は苦渋の決断をすることとなった。知り合いの研究者が作ったロケットにアンドロイドを乗せ、誰の目にもつかない場所、すなわち宇宙へ捨てるのだ。アンドロイドはどこかで生きていけるだろうから、壊してしまうよりは幾分もましである。
 わずかばかりの償いとして、博士は繁殖のために番いとなるアンドロイドを作り、一緒にロケットに積み込んだ。加えて、これまでの経験情報はデリートし別の経験情報をプログラムし直して、博士はロケット発射のスイッチを押したのだった。

 轟音と共に煙を上げて、ロケットは長い宇宙旅行に飛び立っていく。
 このロケットが後に惑星に着陸し、その青い星が七十億もの末裔で埋め尽くされることになろうとは、誰も予想だにしていなかった。

テーマ : ショート・ストーリー
ジャンル : 小説・文学

創作小説 「意味」

 ついに人類が半地球規模の爆弾を開発した頃、世界には二つの大国があった。北の国と南の国。常にいがみ合い領地を争奪する両国に、他の国々は怯えながら生活していた。
 少年もそんな周辺国に住む一人である。といっても、大人たちほど世の中には関心がなかったので自由気ままに毎日を過ごしていた。彼にとってはそんなニュースを見聞きするより、アニメやバラエティ番組で腹を抱えて笑うことのほうが大切だったのだ。
 しかし、その日の夕食時は少年も屈服せざるを得なかった。アニメの途中でテレビが臨時ニュースに切り替わったのである。
「たった今、総理が握手を交わしました。これで我が国も北国同盟に加盟、今後は加盟国と協力して自衛を進める構えとなります」
 興奮した様子のリポーターが映り、父は眉根を寄せた。複雑な顔をしている母に、少年は文句を垂れる。
「あーあ、今日最終回だったのに」
「いいからちゃんと聞いておきなさい」
 耳に流し入れてみても内容はさっぱり分からない。分からないが、北国といえばあの大きな国だ。心強い仲間ができたのだから喜べばいいのに、と少年は当時不思議に思ったものである。
 それから、少年の知っている男たちが消えていくまでに長い時間はかからなかった。
 初めは何となく感じる程度だったのだ。近所の真面目な青年の姿を見かけなくなり、そういえば何人かしばらく会っていない男の知り合いがいると気がつき、父までいなくなった。やがて担任が女教師に交代し、交通整備や工事現場にまで女性のほうが目立ち、電車からもバスからも男臭さがなくなっていった。
 少年とて原因も察せられないほど阿呆ではない。近頃南国派の隣国と関係が悪化している、というのはテレビも学校も伝えていた。風に乗って国境での爆撃音が聞こえてきたこともある。
「必ず誰かと一緒に登下校しなさい。敵兵が近くにいないとは限らないから」
 母は口を酸っぱくしてそう言うようになった。その他にも小言が増えた。ヒステリー気味の母は嫌だったが、少年は父が帰ってくるまでの我慢と大人しくしていることにした。
 それにしても、たまには戻って来てくれたっていいはずだ。少年の国はそう大きくない。まして国境など目と鼻の先である。国のため戦う人には休みすらないのか、と素朴な疑問を口にした時、母は静かに告げた。
「あのね、お父さんはこの国で戦ってる訳じゃないのよ」
 予想外の言葉は酷く冷たく響く。さっきまで美味しかったはずのスープが、突然少年の舌に味を与えなくなった。
「国境で戦っている人の中には他所の軍人さんもいるの。この国が北国派のみんなに守ってもらえるんだから、北国派の他の国が苦しんでいたら私たちの国も助けに行かなきゃいけないでしょう?」
 確かに道理は母の言う通りかもしれない。けれども、少年は納得できなかった。すぐ傍にいると思っていた父が遠くにいるという事実は受け止め難かったのである。
 そんなのおかしい。どうして父が、見ず知らずのよその国のために傷を負わなければならないのか。絶対におかしい、嫌だ、嫌だと駄々をこねているうちに、二つの大国は勝手に世界戦争を始めて、少年にも出征の命令が下った。
 もはや年齢を考慮してくれるほど国は甘くない。少年は島国へ向かわされ、銃を持たされた。透き通る青い海と空、色鮮やかな花と甘い実をつけた木々のある島で、少年は鬱蒼とした林に隠れ、息を殺し、人を撃たねばならなかった。来る日も来る日も血を見て、気が狂いそうになってきたある晩、世界はあっけなく終末を迎えた。
 夜空をカッと真昼の如く染めた光。それがあの半地球規模爆弾で、二大国が同時に相手側へ放ったことを、少年は後から知った。

 目覚めると、辺りの風景は一変していた。樹木は倒れ、敵も味方も潜む場所などなくなっている。そもそも身動きする人はおらず、確かめてみれば誰一人として呼吸がなかった。痛む全身を引きずって町へ足を進めると、そこは瓦礫の山と成り果てていて、同じく声も音もない。
 完全な静寂と孤独。普段なら発狂していただろうが、少年にそんな力は残っていなかった。ただ、これで何もかも終わった、という安心感と虚無感が少年を眠りへ誘おうとしていた。
 その時である。ガラリ、という物音で少年は反射的に身構えた。
 瓦礫をかき分け、銃を手に近づいてくる少女。女の兵士もいたのかと驚きつつ、こちらも銃弾を込めようとする。しかし、爆弾を受けた衝撃で落としたらしくポケットは空だ。
 やむをえず両手を挙げると、少女はキッと瞳を鋭くして怒鳴りつけてきた。
「戦いなさいよ!なんで、なんで、だって仲間皆殺しにするぐらい、私の国が憎いんでしょう!嫌いなんでしょう!だったら私も殺すぐらいの気持ちでかかってきなさいよ!」
 途中から涙交じりの言葉は、異国風に訛ってはいたが辛うじて理解できた。案外故郷と近い国の出身なのかもしれない。もし普通に旅行でもして出会っていたら、殺し合いなんて絶対にしなかっただろう。そんなとりとめもない考えの続きを、少年は自然と口走っていた。
「憎くも嫌いでもないよ。君こそ、何のために僕を撃つの?僕は君の命を奪うつもりないし、ここは君の国でもないし、もう戦争は終わったのに」
「何のためって……」
 黙り込む少女の背後から、朝日が差し込んでくる。昨日と同じように照らされる、死骸だらけの灰色の世界。来た道を振り返り、よくよく頭を回してから少女は銃を捨てた。
「何のためだろうね」

テーマ : オリジナル小説
ジャンル : 小説・文学

創作小説 「ナルシスト」

「私ってほんとイイ女」
 鏡に映る自分に見惚れ、妻は口癖を呟く。メイク道具を手に取る度こうして止まるものだから、妻は長いこと三面ドレッサーと向き合っていた。
 鏡の端にはちらちらと、せわしなく動き回る夫の姿が見える。朝食の食器を洗い、二人分の洗濯物を干し、燃えるゴミをまとめる夫。ドレスアップした妻とは対照的な安っぽいスーツも相まって、まるで女王に仕える奴隷のようである。
 一見ありがちな恐妻家の日常風景。しかし、実際は真逆だった。
「ねえ、あなたもそう思う?」
 気まぐれに呼びかけてくる妻の声を、決して聞き逃しはしない。夫は片足まで履きかけた靴を脱ぎ、嬉々として駆けつけた。
「もちろん。今日も最高に綺麗だよ」
「でも、ネックレスが少し黒ずんできたわ」
 長いつけ爪で胸元を指し示すと、待ってましたとばかりに夫は懐へ手を入れる。
「そう言うと思って、昨日買ってきたんだ」
 取り出される赤い小箱の中、輝く高級ブランドのネックレス。妻はやっと振り返って、勢いよく夫に抱きついた。
「いつも悪いわね」
「よせよ。君を幸せにすることこそ、僕の幸せなんだから」
 長い髪を撫でる手は、優しく仄かに温かい。妻にとって好都合な夫の幸福論は、こうして円満な結婚生活を支えていた。

「……ノロケ話なら他で頼むよ」
 うんざりした様子で、男は来客用のカップをテーブルに置く。鋭い眼光、きつめの香水。掃除の行き届いた穏やかな部屋には、全てが不似合いな男だ。
「そうじゃなくて、つまらないの」
 夫とは違う無骨で冷たい手に、妻は細い指を重ねる。ただそれだけでピリリとした刺激が背筋を伝った。癖になりそうな高揚感と背徳感に、妻は瞳を輝かせる。
「旦那が不憫だな。そこまで尽くした結果が不倫とは」
「だって退屈なのよ。私ほどの女が、カゴの中の鳥でいいと思う?」
 午後の風がカーテンを揺らし、不安定な影を作る。徐に妻は男へ身を寄せた。
「もっと冒険したいわ」

「……本当に、君がそう言ったの?」
 乱れた寝室を眺めながら、夫は淡々と問いかけた。情事を覗いていた時から今に至るまで、落ち着き払っている夫に妻は怯えたままだ。
「ごめんなさい」
 逃げ去り際、全て告げ口していった男を恨む。謝り慣れず涙を流す妻に、夫はそっとハンカチを差し出した。
「謝らなくたっていいさ」
 泣きじゃくる子どもをあやすように、華奢な肩をポンポンと叩く手。やっぱりこの手が一番だ、と妻は確信する。夕暮れの陽が小窓をほんのりと照らし、白いはずのベッドは赤っぽくなっていた。
「別れよう」
 夫の言葉に打ち抜かれ、妻は目を見開いて顔を上げる。
「嫌、お願いだから許して」
 思わずすがる妻を、やんわり引き離す夫。表情には反省の色が浮かんでいる。
「僕は君に不満を抱かせてしまった。彼と一緒にいた時、君は本当に幸せそうだったよ」
 一呼吸置き、夫ははっきり宣言した。
「僕でなく、彼のほうが君を幸せにできるんだ。だから、僕は身を引くよ」
「そんな、違うわ」
「違わないよ。言っただろう?君を幸せにすることが僕の幸せだって」
 迷いのない夫に、妻は言葉が出てこない。今朝まであれほど愛していた妻を、こうもあっさりと手放せるものなのか。それほど落胆したのか、あるいは根本的に何かがおかしいのかもしれない。
 困惑する妻を残し、夫は寝室を出て行った。開け放たれたドアの隙間、足取りは洗面所へと向かう。

 帰宅後に済ませていなかった手洗いの後、夫は髪を触っていた。男に突き飛ばされ崩れたヘアスタイルを、櫛で丁寧に整えていく。
 鏡に映るのは、妻の幸せを第一に考える献身的な人格者。その姿に見惚れ、夫は独り言を呟いた。
「僕ってほんとイイ男」

テーマ : ショート・ストーリー
ジャンル : 小説・文学

創作小説 「矛盾」

 愚かな、と博士は今年も呆れていた。
 研究室から一歩外へ踏み出せば、個数を競い合う男子高校生達とすれ違う。夕食の材料を買いにスーパーへ寄れば、板チョコを手に悩んでいる様子の女性。家へ向かって商店街を歩けば、あちこちから甘い匂いが漂ってくる。

 二月十四日。今日がバレンタインデーなる日であることは、世界トップクラスの彼の頭脳にも当然蓄えられている知識だ。また、日本独自の発展状況についても博士は知っていた。
 世界各国の例から明らかであるように、本来バレンタインデーはチョコレートを渡す日ではない。起源とされる聖バレンティヌスとチョコレートは何の関係も無いし、一般的には他の菓子や花束を贈っても良いのだ。それが日本では何故かチョコレートに限定され、義理チョコや友チョコなどと汎用化されている。
 つまりはチョコレート会社の思う壺だ、と博士は冷めた目で、宣伝用に立てられたピンク色の旗を見た。ハッピーバレンタイン!!!とやたら感嘆符の多い売り文句は、人々の興奮を如実に表すようである。首尾良く乗せられているというのに、なんと呑気な有様であろうか。
 ありとあらゆる学問に造詣の深い博士は、早々に真理を悟っていた。すなわち、人間は愚かなのである。くだらないイベントに浮足立ち、一喜一憂してしまう。そもそも所詮はただの販売戦略なのだから、気に留める方が馬鹿らしいのだ。

 無意識に帰路を辿っていた足が、玄関の前で止まる。身分相応の立派な家は彼一人のためのものである。
 鍵を取り出しながら、博士の視線は郵便受けに注がれていた。普段と同じく、入っているのは学会の案内や取材依頼の茶封筒。
 甘い匂いもしない書斎。チョコレートを口にしないバレンタイン。
 何も間違ってはいない。先程出したばかりの結論そのまま、賢く過ごしているだけだ。
 しかし、と博士は猫背をさらに丸めた。北風が吹き抜けるような胸の感覚は何だろう。最高峰の学識を以てしても、博士はこの矛盾を解くことができなかった。

テーマ : ショートショート
ジャンル : 小説・文学

プロフィール

ばにら

Author:ばにら
マイペースな20代女。
猫とヒヨコが好きです。

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